ヤギと一緒に道草しながら畑の道を歩き続ける

詩と小説

静かな

このところ日傘が流行している。それに伴ってかどうかはわからないが、オープンテラスが異常なまでに増殖し、さながらフランス映画でも見ているような気分にさせられる。

 かく言う僕もそのオープンテラスでカフェラテなど飲みながら心理学の授業で出された課題に取り組んでいる。自分にとっての静けさについて、明日までに原稿用紙五枚にまとめて発表しなければならない。

 そうは言っても、昨夜はマルクス研究会の飲み会で調子に乗って一気飲みを繰り返し、前後不覚のまま帰宅しアパートの畳に突っ伏して眠りこけていたのだから、吐く息は未だに酒臭く、街を行く婦人を、口を半開きにして眺めているに過ぎない。

日傘は足元に影をつくり、それが連なって昼間だというのに妙に暗い印象を受ける。陽射しの強さと比例して濃く縁取られる影だけに注目していると、二日酔いの僕にはひらひらと舞う蝶々のように見えてくる。黒いアゲハチョウはメリーゴーランドのように楽しげにまわったり、あるときにはロンドを踊ったりする。

頭痛が酷い。ストローでカフェラテの氷をからからとまわす。日曜日の昼下がりは猫の昼寝ほどに気だるい時間の進み方で、僕は真っ白な原稿用紙を前に、同じように真っ白な頭を重ねかけ、軽く呻いてから顔を上げる。再びストローで氷を掻きまわす。

隣のテーブルに座る中年のサラリーマンが頭を掻き毟りながら独り言を呟いている。

「私の耳が街の音を記憶してしまったのかもしれない。貝殻に耳をあてると、波の音が聞こえるが、あれは貝殻の螺旋構造に秘密があるに違いない。これはあくまで仮定の範疇を出ないが、もし螺旋構造が音を閉じ込める性質を持っているとしたら、人間の耳にも蝸牛殻という螺旋の形をした器官があるから、同じ現象が起こらないとも限らない。だから私にはいつまでも耳鳴りのような街の喧騒が聞こえるのだ。いや、それにしても螺旋の中で音は一体どういう運動をするのか、それを調べなければならない・・」

僕は男の饒舌すぎる脳みそを嫌悪し、それからカフェラテを一口飲んだ。ほどよい甘さが口の中に広がり、それは驚くほど乾いた体内に浸透していった。

薄いピンク色の日傘を差した婦人がポプラの木を挟んだ向かいのテーブルに座った。日傘で陰になっていて判然としないが、僕が密かに想いを寄せる心理学の講師に似ている。何とかして顔を窺おうとするが、日傘の角度は一向に変わる気配がない。

婦人は日傘と同じ淡いピンク色のフリルのついたワンピースを着ていて、少し尖った顎と唇の量感がやはり心理学の講師にそっくりだった。毎週、講堂の後ろのほうの席から目に焼きつけてきた身体のラインも記憶と一致する。僕は絵心もないのに大学ノートに彼女の、主に後姿をデッサンし続ける。いつも身体にフィットした服装のため、なぞるように丹念に描いていく作業は、愛でるようでもある。下から盛り上がってくる高揚を抑えきれない僕としては、どうしても後ろの席でなければならない。

僕は立ち上がり、ポプラの木の陰からもう一度顔を窺ってみるが、やはり日傘が邪魔をする。ポプラの枝葉から露のような太陽がこぼれ、婦人のテーブルをまだらな木陰が揺れている。それは彼女という人間の明暗にも思われ、一層美しく映った。

僕は自己紹介をし、相席を願い出たが、返事はなかった。少しも動くことのない日傘からは承諾も拒否も感じられないが、勢いあまって急に止まることのできない僕は、半ばやけっぱちの強気で、それならば、と立ったまま質問をする。

「僕の思う静寂とは、単に静かなことではないと思うんです」

婦人は僕のほうに少し顔を向けたが、日傘の角度は変わらないので表情は窺えない。

「夜は駄目です。夜はうるさい。暗闇のもくもくとした煙の中から欲望の声が聞こえてきます。そういうとき、僕は叫ぶことにしています。そうしないことには、欲望の黒い手に足をつかまれるんです。夜は本当に雄弁です」

婦人はくすくすと笑った。ほころんだ口元の赤い口紅が艶やかだった。僕は不可解な衝動に襲われた。

「ねえ、あなたの膝元で眠ってもよろしいですか」

「あなたの求めているのはそういう種類のものではありません。今あなたの求めたのは、薄暗い部屋の中で永遠にあやされ続ける、世にもおぞましい退化です」

永遠のまどろみが幸福か不幸かはわからない。ただ、ときどきそこへ吸い寄せられるような不可解な潜在意識が、確かに存在する気がする。

「夜が嫌いなあなたはどんな時間帯がお好きですか」

「明け方と夕方のわずかな一日の移り変わりの時です。僕は唯一叙事詩的な時間だと思います。そんな地球の語る叙事詩に耳を傾けられるときは少ないですが、ふと心に染み入ったとき、多くは語りません、身体で感じるべき言葉です」

「あなたはロマンティックな方ですね」

「からかわないでください」

相変わらず日傘の陰になっていて表情は窺えないが、暗い横顔は木漏れ日の中でとても美しかった。

「ねえ、あなたの膝元で眠ってもよろしいですか」

コメントを残す