ヤギと一緒に道草しながら畑の道を歩き続ける

詩と小説

夜のキリン


木村夫妻には、長い間子供ができなかった。不妊症と思い込んでいた雪枝は、医師から妊娠を告げられたとき、思わず涙ぐんでしまった。
 奮発した夕食を前に、「今日は何の日だっけ」と首を傾げる武信に、雪枝は多少大げさな身振り手振りを交えて子供ができたことを伝えた。だが、武信の反応は冷淡だった。
 「産むのか」
 スペアリブを頬張りながら武信が聞いてくる。
 「どうして」
 「いや、もう若くないし、もしものことを考えるとさ」
 しばらく沈黙が続き、昨夜の大雪で屋根に積もった雪が滑り落ちる音がすると、二人は顔を見合わせた。武信はどことなく気まずい表情をし、雪枝はぎこちない笑みを浮かべる。
 
日曜日の朝、何も言わずに出かけようとする武信の背中に雪枝は声をかける。
 「どこに行くの」
 戸惑いの含まれた声は、しばらく宙をさまよう。
 「岡部って覚えてるか。サークルに参加するためだけに通学してた奴。あいつから最近連絡あってさあ、それでちょくちょく遊ぶっていうか、まあ、あいつもふらふらしてたから、いろいろと相談に乗ったりね」
 武信は笑顔を向けるが、雪枝は背を向けて洗い物をしている。聞こえないように舌打ちをし、靴下を履きながら子供のことを聞く。雪枝は淡々と洗い物を続けている。もう一度聞く武信の声には怒気が混じる。
 「堕ろすわ」
 手を止めて振り返った雪枝はきっぱりとそう言った。武信は言葉を失い、茫然と雪枝の顔を眺める。
 「ちょっと、今夜ゆっくり話そうか」
 「そうね」
 
 三日前の雪の残滓は、民家の屋根から溶け落ちる水滴の単調なリズムと、よく滑る刻印された足跡だ。街路樹の上にかろうじて残る雪も、ぐったりと寝そべったまま今にも滑り落ちそうに見える。武信は不安に駆られて二階建てのアパートの部屋を見上げ、ふと最近見た印象深い夢を思い出した。
 そのときも確か、得体の知れない不安を覚えて振り返ったのだ。それは夜の砂漠のようだった。鮮やかな満月が浮かんでいて、波打つ砂漠のずっと遠くを三頭のキリンが歩いていた。仲の良い親子に見えた。彼らは長い間変わらない景色の中を歩き続けていた。
 ただそれだけの夢だったが、小説の中に一つの感動を見つけたときのように、目覚めると心がしんと静まり返っていた。
武信は浮気相手と別れることを決心し、今日は別れを告げに相手のマンションへ出かけるつもりだった。しかし、今朝の雪枝とのやり取りを反芻しながら、武信が向かったのはデパートの雑貨売り場だった。やはり会わずに別れを伝えようと思い、ポストカードを選んでいた。女性客に混じって選んでいるうちに、場違いなことに気がついた。封筒と便箋で用は足りるのだ。何故ポストカードを思いついたのか不思議に思いながら、しばらく眺めていた武信の手が止まった。その一枚には夢に見たそのままの絵が描かれていた。よく見るとポストカードの右隅に小文字のアルファベットでゆきえと書いてある。別段やましいことはないが、武信はこっそりと辺りを窺う。ふと雪枝に覗かれているような気がしたのだ。とりあえず気を落ち着かせて、ポストカードと封筒と便箋を購入し、デパートを出た。
喫茶店に入り、ブレンドコーヒーを注文すると、立て続けに煙草を二本吸った。雪枝がイラストレーターの仕事をしているのはもちろん知っていた。問題は何故最近見た夢の絵がすでに店頭に並んでいるのか、ということだ。夢の話をした覚えもなかった。雪枝が描いた絵をどこかで見ていて、それが夢にあらわれたのか、もしくは同じ夢を彼女も見ていたか。武信は手紙を書く手を何度も休めては、煙草を吸い、枯れかけた観葉植物を眺める。

 アパートへ戻った武信はそれとなくポストカードをテーブルの上に置くが、雪枝は一瞥しただけで読みかけの本に目を戻す。
 「これ、いつ頃描いたもの」
 「それはよく覚えてるわ。コンクールで初めて入賞した作品だから。あなたは忙しいみたいで見てもくれなかったけど」
 「じゃあ何年も前だ。やっぱり、変だな」
 雪枝は本を閉じて、ゆっくりと紅茶をすする。
 「どうして」
 「これは、俺が見た夢なんだ」
 雪枝は両手を組み合わせてじっと武信の顔を見つめる。
 「それは私の夢よ」
 「俺が同じ夢を見たってことか」
 「ううん。私の夢なの」
 馬鹿馬鹿しいと笑いかけた武信は、雪枝の涙に気づいた。彼女はまったく表情を変えずに泣いていた。
 「私の長い、長い夢なのよ。あなたは浮気をしている。ううん、私も初めは信じたくなかったけれど、塵も積もっていけば、どうしても処理しなければならないときがくるの。それに私たちには子供ができなかった。夫にそっぽを向かれて子供のない妻の気持ちがあなたにわかるかな。鳥かごに入れられたまま忘れられてしまった鳥の気持ちが。いつからか私はあの夢を見るようになった。毎晩、毎晩、同じ夢を。不思議と朝には穏やかな気持ちになれたわ」
 延々と続きそうな雪枝の話に居たたまれなくなった武信は途中で遮って言った。
 「本当にすまない。お前の言うとおりだ。許してもらえるとは思わないが、もう二度と会わないつもりでいる。俺はその、お前の夢を見て、心が救われたような気がするんだ。いや、何て言ったらいいのか・・」
 「いいわ。あなたを受け入れることはできないけど、子供は産むことにする」
 武信はうな垂れ、もう一度謝る。
 「今は、それでいいでしょう」
 武信は顔を上げ、ゆっくりと頷く。また雪が降り始めていた。雪枝はストーブをつける。
 「ねえ、キリンの夢の話をしてよ」
 武信は雪の降る窓外の景色にしばし見とれた。
 「ずっと、待っていたのよ」
 ストーブの灯が静かに灯った。

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