自己紹介でちらっと書きましたが、以前に(3、4年くらい前だと思います)田舎暮らしを決意してこつこつお金を貯めて目星をつけていた長野県佐久市に下見に向かいました。う~ん、なんて言うんでしょうね。理想と現実のギャップと言いますか、思い描いていた田舎とリアルな田舎の溝は深いですね。まずほとんど人が歩いてません。そのせいかそこはかとなく寂しさが漂っています。このくらいのことで理想的な田舎暮らしを思い描いていた私たちは怯むんですよね。あれ?なにか違う。まだ暮らしてもいないのに、お花畑でも思い描いていたんでしょうか。田舎暮らしの本だとかテレビに映る田舎とは違うリアルな田舎の側面を見て簡単に怯んでしまう、その程度だったんですね。でも、そうやってすごすごと普段の生活に戻ってみるとやっぱり田舎への憧れが膨らんでいく。ようするに現実逃避でしょうか。普段の生活から逃げたいという思いは簡単に田舎暮らしへの憧れに変換されそうです。甘っちょろいお花畑な私たちです。それでも、たぶんむいていると思うんですよね。田舎暮らし。下見から戻ってきてもやもやしているときに書いた日記の中にこんなくだりがありました。
何故そんなにまで田舎暮らしをしたいのかと自分を問いただしてみるに、田舎の生活スタイルへの憧れであるのかなと思います。薪ストーブやら、囲炉裏やら、かまどであったり、またその厳しくも美しい自然のなかでこそリアルを感じ、命を感じることができるのではないか。しんとした時間と、木々の囁きや川のせせらぎ、雪のしんしんと積もる音のなかでこそ、雑念を取り払った自分と対話することができるのではないか。私たちは今、踏みとどまったが、踏み出した人間だけがそこへ行けるのではないのか。
とかなんとかちょっとカッコつけて書いていますが、やっぱりライフスタイルに惹かれる部分は大きいように思います。私にとっては人工的な街並みというのは仮想現実のような気すらするのです。どこへ行ってもアスファルトの地面、木々の代わりにビルが建ち並んで見事に灰色の壁を心に投影してくれます。企業の欲望が乱立する都会の夜に明滅する赤色灯をの群れを見たことありますでしょうか。伏魔殿じゃないですけど、魔物の群れがひっそりと息づいているようで禍々しさすら感じられます。獲物を狙う猛獣の瞳は赤く光っていて野放しの欲望は人間の心を狂わせているんじゃないかって思います。話が脱線しました。現代人の頭の中はもちろん私も含めて雑念だらけだと思います。家族のこと仕事のことちょっとした頼まれごとについてや友人に言われた痛い一言であったり、または購入予定の洋服のことやSNSで紹介されていた賃貸物件についてだったり、本当に回転寿司でまわってくる寿司ネタみたいにいろんなこを次から次へと考えているのに加えてテレビやネットから新しい情報がかっぱ寿司の新幹線に乗ってやってきます。それが一概に悪いとか悪くないとかではなくて、そういう頭の中の状態というのは一対一で何かを感じることが苦手になるんじゃないかなと思うわけです。夕日が沈むのを見てしんみりしたり、雪の降り積もる音ともない音を感じたり、きざかもしれないですけどそいうのって豊かな気がするんです。感情を豊かにする気がします。子供にはそういう風に育ってほしいですし、それにはもうちょっとシンプルなライフスタイルが必要な気がします。
そういう思いもありながら踏み出せないでいるのはやっぱり不安だからです。いざ行ってみて仕事は見つかるのかご近所と仲良くできるのか子供が馴染めないんじゃないか共働きで家を留守にして寂しい思いをさせるんじゃないか、考え出すと及び腰になってしまうのです。だからと言っていつまでもそういう思いを持ちながらあとで後悔するくらいなら行って失敗すればいいと思い立ちました。もちろん、なるべく失敗しないように計画を練って情報収集をしていくつもりです。
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